いのちはずっといのち。~感情と敬意の話~

実体験・レポート

無意識の敬意。

私はよく、肉の捌き方を自分の体で説明します。
「頸動脈はここを狙って」とか「ロースは鎖骨のここのすぐ下から」とか。

初めて鴨を絞めたときに感じたのは、『同じ』ってことでした。
私たちの頸動脈もこの合鴨と同じように皮膚や筋肉に覆われて守られている。
簡単に死なないように、けどいつかは死ぬようにできています。
たぶんそれがベースになって、今回気付いたのが『敬意』について。  

想像してください。

どこかの国の、雑然とした市場の中。
肉屋の屋台があります。
屋台の中では若い男が大きな包丁を振り回し、鶏をバンバン絞めていきます。
彼はこちらに気付くと「おいで、見ていきなよ」というように笑顔で手招きをしました。
彼は笑顔でした。  

例えば彼が、この日の私の鴨絞めを見ていたとします。
彼はきっとこう言うでしょう。
「そんなやり方じゃダメだ。鶏が苦しむ。」

…言いそうでしょ? (妄想癖の私だけ?)

草原で暮らす先住民族のパターンもあるけど、…割愛します。

おそらく、屠ることに対して『辛い』とか『かわいそう』とか『楽しい』とかそういういう感情ではないんだと思うんです。
ただあるのは無意識の『敬意』。
『いのちの重さ』とか『人の罪深さ』とか、そういうことを考えるために『いのちをいただく』のではなく。
ただ日常的に無意識の敬意を持って、生きるために屠る。
そういうことなんじゃないかと。  

これって日本におけるフードロスの問題とすごく繋がってる気がします。

私の話をします。

まずパック詰めされた肉に敬意を表したことはもちろんありません。笑
使えない量の肉を冷蔵庫に放置して腐らせたことがあります。
お腹いっぱいなのに欲をかいてたくさん作ってたくさん食べます。
なのに一円でも安い肉を探して買い漁る。
食品関係の仕事をしていた時は、期限が切れたら廃棄処分。
夜遅くに入ったお店で「唐揚げなくなっちゃったんですよ~。」って言われたらがっかりします。

そこに敬意はあるのかい?

私が生まれた頃には、もう肉はスーパーで買ってくるものでした。
だから、無理もないんです。…って言ってもいいですか?

テレビ寺子屋(テレビ静岡)でひろっしゅコーチこと山崎洋実さんが言ってました。
「変えられないのは過去と他人。変えられるのは未来と自分。」
ここでそれ出すかな~。ってひろっしゅコーチもびっくりでしょうが。笑

でも、気付いた人から、できることから。
私はこの経験を通して、いろんな繫がりを感じました。
それでどうなっていくのかは、…自分でも楽しみにしているところですよ(´艸`*)  

記念すべき最初のの記事が超絶長くなっちゃいましたが、こんな感じでこのブログ、スタートします。

次からはそんなに長くないと思うからーヽ(^o^)丿!

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