学習の教室を始めて3ヶ月が経ちました。
毎日やること学ぶことが多く、バタバタバタバタバタバタバタバタしております。
そんな中で、突然湧いてきたモヤモヤ。
このまま放置すると心が便秘になりそうなので、ここに著しておきます。
救世主、現る。
最近、心強い休日サポートスタッフが入ってくれました。
まだまだ要領が悪く、教室日以外の仕事がぱんちくりん。
困っていた時に、身近なご縁で来てくれるようになった救世主です。
彼女は言ったことをすぐに理解してくれて、言ってないことも率先してやってくれて、ついでに私の話し相手になってくれる(←喋りすぎちゃう。笑)。
そして何よりも楽しそうに仕事してくれるので、その姿を見ていると私も嬉しくなります。
私の心にも時間にも少し余裕ができました。
大人は子供の気持ちを理解できるのか。
そんな折、一人の生徒の成績表を前に私が悩んでブツブツ言っていると、彼女がこう言いました。
「子供の気持ちになったら…。」
その一言に背中を押されて、方針を変えることにしました。
ボヤいてみるもんですね( ̄▽ ̄)。
だけどちょっと悔しかったんでしょうね、私。
ポロっと
「大人は子供の気持ちなんてわかんないよ。」
…捨て台詞(´▽`)。
それを「こわい」と言う彼女。
なんだかどっちも違う気がして、モヤモヤが止まりませんでした。
そもそも、『大人』と『子供』っていう設定って、なに(・・?
その設定は過去の自分。だったりして。
たとえば、目の前の人の気持ちがわかる?
友達の、恋人の、家族の気持ちは?
そう考えたときに、「子供の気持ちならわかる」というのはちょっと不可解だと思うんです。
ずっと前に、教育関係のサポート業務をしている方の話を聞いたことがありました。
その方は、自分も子供時代にいろんな思いがあったから「彼らを守ってあげたい」と言いながらポロポロと涙を流していました。
それを見ながら、心がスーッと引いていったのを今でも覚えています。
この人は、過去の自分を見ている。
そう思ったのです。
「自分もそうだったからわかる。」
大人相手なら『共感』で済むことが、子供相手だと「私は味方よ。」となる。
理不尽は敵か。
味方ができた瞬間、敵もできる気がするんです。
味方ができたとたん、世の中の理不尽が敵になる。
だけど、現れる理不尽に対してその人がどう感じてどう対処するのかはその人自身が決めることです。
打倒すべき敵なのか、何かの顕れと感じて自分を顧みるのか、単に一つの経験として受け流すのか…
おとなでも、こどもであっても。
ずっと守り続けることができない以上、その人が乗り越える力を付けることをむしろ「邪魔立てしてはいけない」と私は常々意識しています。
そういう意味で、私は「子供の気持ちがわかる」と思ってしまうことの方がこわいと思うのです。
だからこそ、知りたい。
「こどもの気持ちはわからない」
だけどいつでも
「わかりたいと思ってる」
だから、話をして、顔を見て、情報を手にいろいろ想像して試行してみるんです。
そうやって彼らと関係を築きながら伴走するのが、今の私の仕事。
仕事じゃなくても私は、人を人として接することから関係が始まると思っています。
「わからない」は諦めじゃないこと、彼女に伝えなきゃ。
もしかしたらそれだけのためのこの記事かもしれません。笑
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