猫の餌と心のウンコ。

考え方

最近、とある日課ができました。
私にしては珍しい、美化活動。
今日はそんな日課の最中に考えたことを書いていきます。

発覚。

一緒に暮らすパートナーの駐車スペースのど真ん中に、猫さんが毎日糞をしていることが発覚しました。
近所に餌をやる人がいるというのは知っていましたが、それ自体あまりなんとも思っていませんでした。
以前、猫さんには助けてもらったこともあるし。
猫に助けられた話。
ちょっと友達みたいな意識もあり。
だけど、ついにある日、パートナーの車がそれを踏みつけました。

終わった…

とは、発見時の彼のセリフ。笑
猫のそれって、臭いも粘度も強めなんだよね。
いよいよなんとかしなければということで、毎日発見したら片づけて水で流すという活動を始めたのです。
これがまぁ、なかなかな頻度で。
朝な夕なその処理に勤しんでおります。
今日はちょっと真ん中じゃなくなってた。笑

食事と排泄はセット。

そんな中、処理作業中にふと連想されるものがありました。
最近になってやっと防災について話し合いを始めた我が家ですが、調べているとこんなことが書いてありました。

食料と同じくらいトイレの備えが必要です。

確かに!!
食べたら出る。当たり前。
その処理が滞れば、不快感・不衛生が不安やトラブルを煽ること間違いなしです。

食事と排泄はセット。

当たり前すぎて盲点でした…。

餌をやる心理。

翻って猫の話。
野良猫に餌をやる行為って、ひとつの『施し』なんじゃないかと思います。
施す善意は自分の癒しだったりします。
『誰かの役に立つ』『与える』行動をすると、愛情ホルモンのオキシトシンというのが分泌されるんだそうです。
お腹を空かせた猫が餌を食べる姿を見ると、オキシトシンが分泌されて、なんだか心の穴が埋まっていく…
ただ、そのあとです。

猫だって、食ったら出す。当たり前。

食事と排泄はセットです。
だけど、野良猫の糞を片付ける人って餌をやる人の何割でしょうか。
善意で糞の片づけだけする人ってあんまりいない気がします。
片づけても猫が喜ぶ姿を見られるわけではない。
そして臭くてめんどくさい。
オキシトシンの分泌で言えば、相当コスパ悪そうだよね。

そんなことから考えると、餌やりをやめられない心理には『満たされたい』が少なからずあるんだと思います。
不安や不満、人間関係のストレスに押しつぶされそうな毎日。
野良猫の糞は、餌やりをやめられない人の処理しきれない心のウンコだな。って思いました。

ウンコへのアプローチ。

野良猫の糞はかなりの確率で人間関係を悪くします。
「餌をやる人がいるから…。」って言われる。
直接それで揉めることもあるだろうし、そうでなくても引け目から知らず知らず円滑なコミュニケーションが築けず新たな人間関係のストレスを作ってしまう。
これではいくらオキシトシンを分泌しても、それが原因でまた消耗してしまうよね。

だけどもし『餌やりと排泄物の処理はセット』という認識があったら、処理でコスパが悪い人は他の方法を探すだろうし、処理できる人は揉め事も引け目も激減して心のウンコが減ると思うんです。
問題を『餌』じゃなくて『猫の排泄物』に絞って捉えると、『人の心のウンコ』の方に物理的にアプローチできるのでは?
認識を変えるだけで、抜け出す道が拓けたりはしないだろうか?
駐車場でシャベルを持ちながら、そんなことを考えていました。

もちろん、繁殖その他諸々の問題もあるので処理さえすればよいということではなく、出口の見つけ方として、ひとつの提案でした。

解決法は必ずしもダイレクトに見つかるわけじゃないと思うから…。

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